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興味がない!

内向型は、興味のあることには饒舌であるが関心のないことは全く気が向かないらしい。

確かに心当たりのあることです。
でも、関心がないってどういうことなのか?

改めて考えてみるとよくわからないことです。そもそも関心がないのだから、それは何故などと考えたりしないものかも知れません。

おそらく関心の持てない事というのは、感情が動かされない事なのだと思います。

良くしてもらっても、うれしくなければ関心が払えない。逆に、すごく悲しかったから自分の体験に関心を持ちすぎてしまう。

ということは多少感情をコントロールすることができるようになれば、関心と無関心の広くて深い溝をちょっとずつ埋められるようになるのでしょうか・・・。

内向的で困ること

内向型は外からの刺激をより大きなものとして受け止める気質です。

なので大したことのない事や、一見何も起こっていない状況などでも観察したり考えたり、内面を忙しくしていることもあります。

そこで困るのが、内面はひとから見えないので、他人から理解されづらいということが発生することです。

自分としては色々考えたり、ものを見たりしているのに、ついぼーっとしているとか、何を考えているかわからないと思われたりするようなのです。

そんな状況を打破するためにたまに逆にはっちゃけて失敗することも・・・。

ひとから理解されたいと思うことは大事なことなので、困っていること自体は悪いことではありません。でも内向的ながらひとに理解されたり親しみを持ってもらうのはなかなか難しいので、周りのひとと地道にコミュニケーションをとっていくべきだと思います。

外向型から盗め!

外向的なひとを見ていると、要するに他人がどう思うか?とかを物事に取り入れるのがすごく上手と思ってしまいます。

情報収集が上手だったりもするし、興味のあることがいつも外側に向いているように思えます。もちろん他人自体にも関心を持っているように見えるし、初対面のひとがたくさんいても疲れ知らずなんだろうな、という想像をしてしまいます。

内向型も外向型におとらず良いところがあると思うのですが、でも自分が苦手なことを少しでも良くしたいという気持ちはあるもの。

そういう時、外向的なひとがどういう振る舞いをしているかを観察することは大事だと思います。ただただ、”自分とは違うタイプのひとだな”とか”自分とは気が合わなさそう”と思うのではなく、なるほどそういう風にすれば好かれるのかもな、というような技を盗めるようになるかも。

話すこと書くこと

自分を表現する方法について考えてみるとなんだか芸術的なものを想像してしまいますが、日常的に話したり書いたりすることも自己表現のひとつと言えます。

外向的なひとは相手の言ったことをうまくとりこんで会話するのが上手という気がしてしまいます。
でも内向的であっても気心知れた相手とは上手く会話できるもの。環境や状況によってひとは表現が上手くなったり下手になったりするものなのです。

それに書くことは時間をかけたり、ひとりで練習したりできるものですから、内向型にとっては話すより得意でかつ有利かもしれません。

おおげさなことをしなくても自己表現ができる、話すこと書くことと向き合うことでいろんなことがうまくいくようになるかも。

心的エネルギー

心理学を多少学んでみると、たまに”心的エネルギー”という言葉に遭遇します。

学術的な話になると、そもそもエネルギーという言葉の意味から考えなくてはならなくなるのでとりあえず置いておきます。
私たちが知りたいのはそういう学術的なことではなく、例えば心的エネルギーを失っても自分の努力で回復できるものなのか?というようなことです。

内向的だと外からの刺激に圧倒されてエネルギーをどんどん消耗していく感覚があります。でもエネルギーがどんどん回復して心の底から湧いてくるという感覚はあまり経験したことがないように思います。

心のエネルギーは回復させるのではなくセーブする、という方が実感に近いです。
できる努力があるとすれば、エネルギーを回復させる何かを探求するよりも、無理して刺激的な状況に長く身を晒さないほうが現実的な対策としてはよいでしょう。

外向型は生きやすいのか?

内向的な自分について考える時、つい外向型のほうが生きやすそうだなどと思ってしまうことがあります。でも、それって本当なのでしょうか?

外向型は外からの刺激を受けて元気が出るような、そういう気質のことを言います。ですからガヤガヤした刺激の多い場所が得意と言えます。または、主観的な判断を要することですら他人から見た場合にどう思われるかを大事にしている、という言い方をすることもあります。

刺激的な場所や状況を好み、他人の意見などに影響されやすい。

そう考えると、静かで穏やかな場所や状況を好み、自分の意見を大事にしている内向型と生きやすさで言えばとんとんという気がします。刺激的であろうとすればトラブルも多かろうし、他人に流されることがあるのならば自分と向き合うのも容易ではなかろうという想像をするからです。

内向的だと世渡りしづらいという実感もありますが、外向型のほうが生きやすいというのは短絡的すぎるようです。

自分と向き合う

内向的であることを悪いことのように書かれることがあります。他人がどう言おうが関係ないという考えもありますが、問題は自分自身を肯定しづらい要因としてその意見を採用してしまうことです。

自分は内向的だからだめ。内向的だから上手くいかない。

でもそもそも内向的ということばをどうとらえているのか?ということを考えると、そういうことを言うひとはたまたま自分がだめな理由を内向的であることに据えているだけで理由は何でもいいと思っている気もします。

内向的かどうかは気質の問題で人間の良し悪しを決定できる事柄ではありません。
内向的だからだめ、ということは絶対にありません。問題があるとしたら何か別のこと・・・と思われるので、もっと広くご自分を見つめなおしてみてください。

よっ、聞き上手!

明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。

ところで内向型に限らずですが、ひとの悩み事などにどういうわけか自信満々にアドバイスしてしまうことがあります。
(管理人はある。言うなればこの記事もそう)

そして、相手の反応がいまいちだったことをして”失敗した”と気がつくのですが、その時はとりあえず手遅れです。

そんな失敗を繰り返していると、「もっと的確なアドバイスができるようにコミュニケーション能力を磨かなくては!」となったりするのですが、たぶんそれは最もただしい、少なくとも唯一の対処方法ではありません。

悩みを吐露する人は、「聞いてほしい」「共感してほしい」のであってアドバイスや結論をほしがっているとは限らないのです。

内向型は聞き上手!とわりとよく書かれています。
もし相手のリアクションがいつも微妙、ということがあるようでしたら、ぜひ一度ひたすら聞くということをやってみてください。

黙ってるのは罪じゃない

年末年始、たくさんの、しかも久々にそのひと達と会うという機会が増えます。
参加することはいいことですし、とりあえず行っとこう!と思います。

だけど、その場で疲れすぎて失敗したりするのは避けたいもの。
ではどうすべきなのか?

まず、気の利いたことを言わないのは罪ではありません。それどころか黙っていることすら許されるものです。黙って機嫌よく食事したりみんなの話を聞いていればそれで十分です。

それに加えて自分らしくいられれば疲れずに済むかも、という希望は捨てた方がいいと思われます。
たくさんの久々に会うひとのいる場で自分らしく振舞うのは至難の技なのです。

では、今年もありがとうございました。
よいお年を!!

もやもやしたら書く

自分とは違う種類の人と会うと、もやもやした気持ちになることがあります。

相手に悪意らしきものがある場合も、ない場合もありますが、毎日色々な人と出会う機会があればもやもやなどしょっちゅうということもあり得ます。

そのもやもやは瞬時に言葉にすることがむずかしかったりします。

外向型はわからないですが、内向的な方ならいつまでももやもやを気にしてしまうこともあるかと思います。

もやもやは言葉にすると多少すっきりします。
書くという行いはもやもやを言葉に変換する大きな助けになると私は思います。