「内向型について」カテゴリーアーカイブ

ブログで何書く

みなさまはブログやsnsをお使いでしょうか?

どこへ遊びに行ったとか、何を食べたとか、そういう書き込みが一般的のような気がします。

中には私的な感情を誰宛てというわけでもなく書き綴っている方もおられます。
そういったものを見かけると、見てはいけないものを見たような気にもなります。

その良し悪しを私が判断できるわけではないのですが、そういった内面を書き綴るということはこの方々は内向的なのかも知れないとは思うわけです。

どうしてリアルの日記帳ではだめなのか・・・。

余計なお世話ですが、紙のノートを買ってそこに書くほうが、ブログで誰かと共有できているかのような曖昧な状態を作り出すよりも、自分の感情とはっきり向き合えるような気がします。

しがみつくのは当たり前

思い込みがはげしく、勘違いもしばしば。
頑固に振舞って、周りとうまくやれなかったりする。

内向型にはこういった悩みがある気がします。

でも外からの刺激を大きいものとして感じる内向型が、せっかく得た情報をもとにした確信をどうしてそうやすやすと手放すことができますでしょうか。

周りのすべてのひとがそうやって理解してくれるわけではないけれど、思い込みや勘違いで失敗しても、次から気をつけるようにすればいいのだし、自分を否定する必要はありません。

思い込みがはげしいとひとに非難されても、本当に自分はそんなにひどい振る舞いをしているのかよく考えるべきであり、むやみに自分を否定しないほうがいいと思います。

ひとの意見を聞くべし

内向型は、外からの情報を取得することが苦手です。

外からの刺激を大きいものと受け止めて疲れてしまうし、細かい情報すらも受け取ってしまうので情報の総量が多すぎて整理しきらないのです。

そうなると情報の蓄積も苦手となるようで、例えば初対面の人がどんな人で、どんな付き合いや話をすればいいかもよくわからなかったりします。

自分を変えることは容易ではありませんから、そこはどうしようもないと諦める他ありません。

しかし、世間にはそういう情報取得が得意なひともいるわけです。そして、そういうひとに私たちは意見を求めることができる。

意見をもらっても、否定するのでは意味がありません。それを素直に受け入れることに慣れることが大事と思われます。つまり、ひとに何かすすめられたりして”それはない”とか”面倒だな”と思っても、とりあえずその通りやってみる。

やってみて得るものがあれば少しづつ慣れていくのではないでしょうか。

真実はどこにある?

唐突ですが、内向型と外向型では見えている世界が違うように思います。
と言うより、そのくらいに思っていたほうがお互いに理解しやすいと思うのです。

例えば、同じ映画を見たのに全く違う感想が出てくる。ものの見え方や感じ方がかなり違うことを了解していないと、ただ単に相手は意味のない情報を映画から読み取っているのだ、と思いかねません。

外向型は悪い登場人物の魅力を語り、内向型はその人物に悪意はなく本当は良いひとの筈だ、などと言う。外向型はその登場人物に関する情報をあますところなく画面から感じ取り悪人と認識しながらもその魅力を認めるが、内向型はそこまで情報取得能力にたけていないのであくまで自分の感じたことと考えをヒントに人物描写を試みる。

どっちがいい、ということはありません。たぶん一番いいのは素直に情報交換をすることでしょう。

だけど、お互いに見えている世界は違うのだから、それぞれの意見にはそれぞれの真実があるという考えを持てていなければ、そういう渡り合いはしようがないのではないでしょうか。

内向的かどうか見分ける

有名人のブログなどを見ていると、文章の上手なひとがいます。逆にそれが苦手だとそもそも更新しないらしく、そうひとを見かけることはあまりありません。

文章が上手だと、内向型かな、となんとなく思ってしまいます。

だけど、文章を書くには客観的視点が不可欠で、外向的なところがないとなかなか上手くいかないものです。
でも書く内容が自分の内面と照らし合わせられていないと、文章は幼稚になってしまうだろうし、やっぱり内向的であるような気もする。

このように、誰かを内向的か外向的か判断するのは相当むずかしいことです。

もしそういうことをしようとするならば、内向的な所と外向的な所を両方探して、そのバランスを見たほうがいいと思います。

そして自分に関しても、そういう風なバランスを意識するほうがどちらかのタイプに決めてしまうよりもいいかも知れません。

考えたからいいってものでもない

内向型は比較的考えるのが好きな気質です。
ちなみに、何か考えている風に見えて、本当は何も考えていないひとは直感やそれまでの経験によって物事を判断しているらしいです。

何も考えないよりは考えたほうがいい。
でも考えたからって何もかも上手くいくわけじゃない。

感情が大いに影響を及ぼし冷静に物事を考えられていない時もあるし、考え方に
くせがついていて結局いつも同じ結論にたどり着いているということもあります。

そうなると直感や経験に勝る考えをしているとは言いづらいでしょう。

気持ちとしてはやりづらいけれど・・・。今自分が考えていることって本当の所
どうなんだろう?と振り返るくせをつけたほうがいいようです。

安上がりでごめんなさい

私はyoutubeが大好きなのですが、他人がゲームしてる様子を毎日機嫌よくチェックしているのをして何て安上がりな趣味なのだろうと自覚せざるを得ません。

内向型がすべてそうとは限らないでしょうが、比較的感じやすい傾向を持っているらしいということは心理学研究において語られることではあります。

屋外で興奮するような体験をしないどころか、屋内で、しかも自分でゲームするならいざ知らず、それすらせずにPC画面を見て30分も手に汗握りうれしそうにニヤニヤ笑っていられる・・・。

たぶん私は、何十時間もかけてパリのルーブル美術館へ行き人混みの頭越しに見るモナリザより、子供向けの絵本にプリントされたそれに魅了されたまま何年も過ごせる人間です。

感じやすいと他人に信じてもらえない程にしばしばうちのめされたまま職場から帰宅する羽目になるのですが、ここまで安上がりだと自分の性質も悪くないと思えてくるものです。

人気者になりたい!

社交的だと、みんなの人気者になれてきっと幸せ。
そんな想像をよくしてしまいます。

そういう人たちの幸せを疑うことに意味もないのですが、自分と他人をくらべてどっちが幸せか?というのはつい考えてしまうことでもあります。SNSでみんなに囲まれたそういう人たちの写真を見ると、なんだか気持ちが落ちてしまう。そんなことすらあります。

だけどもう少し想像を膨らませてみると、じゃあみんなに囲まれたパーティーって居心地がいいものかしら・・・?

残念ながらその想像の中で自分は、なんとかお馴染みのひとと一緖に、壁にくっついて静かに食事したりお喋りしたいと願っていたりします。

でも想像するだけでなく実際に経験すればそんな考え(人気者は幸せな筈)ともおさらば出来るかも。みんなに囲まれるようになるまで無理してでもパーティーに頑張って出続ける。そうやっていくうちに納得できたら、自分だけの幸せが見つかるものなのかも。

すべては内向的であるがゆえ?

内向的である事が良くないことのように言われてしまうと、うまく行かない色んなこと(たいていは人間関係と思われる)は、すべてそのせいであるような気がしてしまいます。

もし私が外向的だったら、こんな問題はなかっただろう。
少なくとももっとスマートに解決できる筈だ。

しかし残念なことに、物事はそう単純ではありません。

あなたが外向的だったら、きっとすべてが変わってしまう。下手をすればここにいないかも知れない。
あなたがどんな気質を持っているかによって周囲の接し方は変わっただろうし、それがあなた自身の人格形成にも影響を及ぼしただろうと考えられるからです。

だけど、気質が変われば色んなことが違ったであろうのと同時に、気質以外の色んなことがあなたに影響を及ぼしているものです。

知りようもないことですが、複数の要因から成り立っていると思われるその悩みは外向的であっても案外同じかも。

興味がない!

内向型は、興味のあることには饒舌であるが関心のないことは全く気が向かないらしい。

確かに心当たりのあることです。
でも、関心がないってどういうことなのか?

改めて考えてみるとよくわからないことです。そもそも関心がないのだから、それは何故などと考えたりしないものかも知れません。

おそらく関心の持てない事というのは、感情が動かされない事なのだと思います。

良くしてもらっても、うれしくなければ関心が払えない。逆に、すごく悲しかったから自分の体験に関心を持ちすぎてしまう。

ということは多少感情をコントロールすることができるようになれば、関心と無関心の広くて深い溝をちょっとずつ埋められるようになるのでしょうか・・・。