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好き嫌いの正体

今回の記事は内向的かどうかとあんまり関係ありません。心理学的ですらありません。管理人のただの持論です。

学校へ行ったり、働いていたりすると、好きなひとと嫌いなひとができるものではないかと思います。それは、友情とか恋愛とかの限定したものじゃなく、このひと好きだなとか、嫌いだとかそういう素朴な感情のことです。

そういう好き嫌いの感情には、たいてい理由がくっついていると思うのですが、それを他人から聞かされるのはまあまあの苦痛です。

というのも、その理由が覆される何かが起こっても簡単には好きが嫌いになったり、嫌いが好きになったりしないからです。

好き嫌いは簡単に理由付けできるものではなく、感情によって説明すれば一言で済むものを、長々と理屈で説明されるので他人から聞くそれは苦痛なのではないかという気がするのです。

要は、好き嫌いは理屈では説明しがたいのです。その人の事は、何を取り繕ったって嫌いだし、どんな悪事を働こうとも好きなのです。逆に言えば、嫌われているからといちいち深刻になったり、好かれているからと高飛車になるのは、あまり適当ではないということです。

そのなかで気をつけないといけないのは、「好かれようと気にかける」のは”気遣い”の一種だと言うことです。嫌われていて、それを覆せないなら何をしてもいいというのは間違いだと思うのです。

受け流す

内面につよい関心を持っていると、時として自分の感情にこだわってしまい、嫌なことを受け止めきれないということがあります。

何が嫌なの?と聞かれても、嫌なものは嫌なのだから仕方ありません。
もし自分が精神的に成長を遂げて、冷静に考えて、そんなに嫌がるべきことなのだろうか?と思えることもあります。
でも、嫌な感情を持ってしまうことを、そう簡単に変えられはしないのです。

そこでどうすればいいのか?

嫌な感情を起こさせることに対し、受け流せるようになること。

負の感情は他人を傷つける原動力にもなり、ただ正直に素直に振る舞っただけというのでは済まないこともあります。
嫌な感情が湧き上がるようなことが何故起こるのか考えだすと、ますます自分の感情に振り回されることにもなります。

負の感情をなかったことにしたり、無視したり、溜め込んで我慢するのは良くありません。
でも、嫌な思いを自分だけがしているのではない場合もある。
常にそうするべきということではなく、時と場合によって”受け流す”ということを選択肢のひとつとして持っているほうが生きやすいのではないかと思うのです。

幸せってなんなの

幸せとは何か?これがわかれば何も悩まないので、のっけからこんなことを言うのも何ですが、それはなかなかわからないものであります。

ただ日常暮らしていると、幸せにも種類があるという気がしてきました。

それは、”自分が感じる幸せ”と、”ひとから見た幸せ”です。

前者は、おいしい、とか心地よい、涼しいとかあったかいとかそういうこと。
後者は、お金持ちとか、美しい、才能があって、愛されている、など。

こういう考え方をすると、内向型と外向型では思う幸せが違うような気もしてきます。

でもそんな単純なことなのだろうか・・・?誰にとっても、どんな気質のひとでも”幸せがなんなのか迷う”ということは起こってるんじゃないだろうか。

それすらもはっきり確信が持てないくらいむずかしいことです。

人気者になりたい!

社交的だと、みんなの人気者になれてきっと幸せ。
そんな想像をよくしてしまいます。

そういう人たちの幸せを疑うことに意味もないのですが、自分と他人をくらべてどっちが幸せか?というのはつい考えてしまうことでもあります。SNSでみんなに囲まれたそういう人たちの写真を見ると、なんだか気持ちが落ちてしまう。そんなことすらあります。

だけどもう少し想像を膨らませてみると、じゃあみんなに囲まれたパーティーって居心地がいいものかしら・・・?

残念ながらその想像の中で自分は、なんとかお馴染みのひとと一緖に、壁にくっついて静かに食事したりお喋りしたいと願っていたりします。

でも想像するだけでなく実際に経験すればそんな考え(人気者は幸せな筈)ともおさらば出来るかも。みんなに囲まれるようになるまで無理してでもパーティーに頑張って出続ける。そうやっていくうちに納得できたら、自分だけの幸せが見つかるものなのかも。

満足して暮らす

日々何のためにちょこまかと悩み苦しみそしてさまようのかと考えた結果、自分はどうやら”どうしたら満足して暮らしていけるか?”を追い求めているいらしいと思い至りました。

買ってきた間違いなくおいしいものよりも、自炊したほうが満足感が得られる。
流行を追いかけるより、丈夫で長持ちしそうな服を着ているほうが満足できる。
ちょっとだけ外出をして、あとは家のなかで過ごせると満ち足りた気分になれる。

自分が満足するかどうか?は、その行為をイメージでとらえるのではなく、実感としてどうか?ということをきちんと考えることが大事です。それは内向型の得意とするところのような気がします。でも上に書いたような目先の、かつ自分だけの満足を追求するあまり空回りすることも。

なかなか出来ないことではありますが、他人の満足に関わることがまわりまわって自分の満足につながることもある、というところまで考えられるようになりたいものです。

愛されたい!

赤ちゃんというのは、周囲の関心をひきつけたり愛されようと動作する能力が生まれつき備わっているそうです。

そういう能力が大人になってからもあればいいのですが、そういう単純なことではなさそうです。

ひとが周囲に関心を持たれたり、気にかけてもらえるかどうかは本人次第という問題のほかにもいろいろな要因があります。

例えば、そもそも周囲に自分勝手なひとばかりなら自分を気にかけてくれようもないし、反対に自分がいつも身勝手ならば好かれようがありません。

そういう環境、自分の性格や見た目、経済状況や特技などありとあらゆるものによって愛されるか否かが決まってきます。

ちなみに内向的だから愛されないとは限りません。貧乏だから愛されないということもなければ性格が悪くてもなぜか好かれるひともいます。要はいろんな要因が重なり合っての結果だということです。

あの所為この所為と考えるのではなく、まず他人の気持ちを考えることが大事のような気がします。

考えすぎはよくないよ、と言われたら

考えごとをずっとしていると、なんとなく息苦しいというか、頭が痛いというか、そういう感覚に陥ることがあります。

そういうときは考えごとを「想像」と「妄想」に分類してみてはどうでしょうか。

「想像」は考えの中で物事が展開するけれど、「妄想」は展開はせず同じ考えや場面が繰り返されるだけで先に進みません。

もしこの分類によって頭の痛い考えごとから「想像」だけをのこし「妄想」を捨て去ることができたら、考え始めてから結論に至り行動するまでの時間や考えごとの量を大幅に削減できて、”考えすぎる”ということがなくなるかも。

すべての原因は内向型ゆえ?

心理的によくない状態というものがあります。
うつ状態だとか、問題行動があったりだとか、そういう状態です。

そういう状態は、内向的だからこそ陥りやすい、ということはあるのでしょうか?

生まれつきの何か理由があって、そういう状態にあるということもあり得ます。
また環境によってそうなったという場合もあるでしょう。

内向的だから精神的な病気になりやすいということはおそらくないと思います。
自分が内向的で、かつ何か心理的な援助が必要となるようなそういう状態だということがあるならば、原因は気質(=内向的であること)だけでは、少なくともないはずです。

現状に何か問題があるならば、内向的である気質だけが問題といったような原因の特定はむずかしいかと思われます。

レジリエンスについて

心理学について調べていると「レジリエンス」という言葉を目にすることがあります。

これは”心の折れにくさ”という説明がよくなされるものです。

同じような辛い状況にいる人でも、心がすぐに折れてしまうひとと、そうでないひとがいる。そうでないひとが持つものとして「レジリエンス」を指すようです。

レジリエンスがあるかどうかにはいろいろな要因があるようです。
個人の要因だけでなく環境などもあり、「レジリエンスを獲得しよう!」というものではありません。

そういう飛び道具的なものとして扱うよりも、地道に人間関係を築くことで育まれるもののように思われます。

もやもやしたら書く

自分とは違う種類の人と会うと、もやもやした気持ちになることがあります。

相手に悪意らしきものがある場合も、ない場合もありますが、毎日色々な人と出会う機会があればもやもやなどしょっちゅうということもあり得ます。

そのもやもやは瞬時に言葉にすることがむずかしかったりします。

外向型はわからないですが、内向的な方ならいつまでももやもやを気にしてしまうこともあるかと思います。

もやもやは言葉にすると多少すっきりします。
書くという行いはもやもやを言葉に変換する大きな助けになると私は思います。