「こころの健康」カテゴリーアーカイブ

自分と約束をする

人は自信がないと物事をうまく運ばせられないものですが、自信は自信でも根拠がないとどうにもならないし、かと言って自信が持てるような経験ってそんなにできるものじゃない。じゃあどうすればいいのか?

もしも自分と約束をして、それを果たすことができれば例え小さくとも自信になるのでは。

今夜は自炊しようと自分と約束をした。
帰ったら今日は1日どんな気持ちで過ごしたか書き出そうと自分と約束をした。
週末には衣替えをすると自分と約束をした。

そしてその通りにする。

誰かと約束をしたりするとハードルは不本意に高くなってしまうかもしれない。
でも自分との約束なら人に言わなくて良いから見栄だって張る必要がない。本当に必要なやるべきことを目標にできる。

そうやって自分との約束が果たされることで、少しずつ自信を持てるようになれば、それは素敵なことではないでしょうか。

心の入れ物

子供の頃、「たくさんのふしぎ」という月刊誌を購読していたのですが、その中に”人形は心の入れ物”という特集がありました。

ああ、そうかもなと思う一方で、大人になると人形だけじゃない色々なものが心の入れ物になっているような気がします。

テレビドラマを見て泣いたり、インターネット動画を見て笑ったり、広告で得意げな顔をする芸能人になんかムカついたり。

日常的に、色んな何かを通して私たちは感情を表出していると思うのです。

内向的な人は、心の中が忙しいのでそれを全てその都度表出するのは難しいのではないかと思います。だからこそ、その時どきの感情を代わりに受け止める器があると、気持ちも違ってくるでしょう。

皆さんも、自分の心の入れ物を見つけてみてください。

明るく振る舞えば人は寄ってくる?

アメリカの青春映画やドラマを見たことがある方は、はっきりとイメージしやすいと思うのですが、ポピュラーキッズあるいは人気者という人は世の中に確かに存在して、彼らはいつも明るくハッピーな雰囲気に包まれて、その名の通り人を惹きつける魅力ある人気者と言えます。

そういった彼らを模して、いつも明るく振舞っていれば自分も人を惹きつけられるかも知れない、とつい考えてしまうのですが、それは本当なのか?

まず、難しい問題に直面すると人はどうしても渋い顔をしてしまうもの。真剣に生きていれば、常に明るく振る舞うなんて無理じゃないかなと思ってしまいます。

人に心配させまいと明るく振る舞う人もいます。でもそれは、明るく振舞って人に心配かけまいとすることが、本人にとって心理的負担がより少ないからそうするのであって、無理にそうしているわけではない。要は単に、それはその人の特性の一つであって、その特性だけで人を惹きつけているわけではないと思うのです。

暗い顔をして沈黙していれば、それは人も寄ってこないでしょう。それを「明るく振舞っていないせい」だと考えるのは極端すぎます。

人を惹きつけるもの、それは「自分らしさ」やそれによっていかに「人生を謳歌してそう」に見えるかではないでしょうか。辛い時に思いっきり渋い顔をして大いに苦しむ。そういうことが人を惹きつけるのに、何の役にも立たないとは、どうしても思えないのです。

心が強いとはどういうことか

もっと強くなりたい、とか、強い人じゃないと幸せになれないとか言うことがあります。

でも、よく考えてみると心が強いってどういうことなのかよくわからない。

人間は自分の心を、例えば厳しい現実にさらして疲弊してしまわないように、自分に都合よく物事を解釈したり、楽観的に考えるものだそうです。そして、その方がむしろ健康的なのだとか。

けれども、物事を現実的に捉えようと努力する人がいたりします。そしてそういう人は厳しい現実に自分の心をさらしがちなので、感情が抑制できないことがあったり、抑うつ傾向にあったりする。

じゃあ、そういう現実を直視しようとする人は感情的で心が折れがちだったり、抑うつ状態になるから心が弱いのか?

そんなことを考えだすと、心が弱い、とか強いとかいうのはあまり意味がないような気がしてしまいます。

こうしよう!と決めていたのにやり遂げられなかったから、弱い。そういうのはあるかも知れません。だけど、自分ができそうなことしかやらなければ、”やり遂げられない”という状況に陥りようがありません。できないかも知れないことに挑戦しただけでも、心が強い!という考えが一方で出来てしまうのです。

最後になりましたが、内向的だから強い、弱いということも勿論ないと思います。

人に話すと楽になる

辛い経験をした時、それを話さずにいようとするとストレスになり心だけじゃなく体にも悪いそうです。

でも、辛い体験ってそんなにしょっちゅうあるわけじゃない。

それに自分の話はし慣れていないと、いきなり辛い話などできないもの。

内向型は社交が得意ではなく気が進まないかも知れないけれど、おしゃべりの練習は日頃からしたほうがいいと思うのです。

ちょっとしたつまらない気持ちでも、人に話すと思い込みに気がつきやすくなるし、逆につまらないことを話題にすることで、不要なまでの高い自尊心や過剰な自意識も少しは和らぎます。

ちなみに、自分の話というのは気持ちとか感じたこととかで、自慢話とかではありません。自分がどんな人間か相手に伝わってしまうようなことです。知識や知性をひけらかすのでもありません。

辛い話をしたい時のために備えるというのは変だけれど、自分のことを人に話す練習はすべきだと思います。

過度のストレスとは?

ストレスと聞くと、健康に悪いというイメージがあります。でも、全くストレスのない生活を想像すると案外つまらないものにも思えます。

では、健康的に過ごすために本当に気をつけるべきストレスとは何なのでしょうか?

よく「過度のストレス」という言葉を耳にします。おそらく、これこそが気をつけるべきストレスなのでしょう。でも、人によってストレスの度合いは違うし、自分が感じることを頼りにするしかなさそうです。

内向型は外からの刺激を受けるとすぐに疲れてしまうので、それによってかえって防御されるように思います。すぐに疲れるので過剰な刺激にさらされ続けるようなことはしないのです。けれど、その分考えることにエネルギーを注いでしまうようにも思います。

うつ病について書かれたものを読むと、病状としてネガティブな思考に陥るというものがあります。

考えすぎてネガティブになる・・・というのはありそうですが、ネガティブな思考に陥るほどの日常的な緊張感について考えると、ネガティブ思考とストレスは鶏ー卵のようにどっちが先か?という問題に行き着いてしまいます。なので、考えすぎることを止めればいいという単純なことではなさそうです。

まず、自分がもし「過度のストレス」にさらされていると感じたら、そこから逃げるべきです。でも自分で気づけない場合もある。そういう時は発想の転換をして、ネガティブな考えを持ちがちなら、どんな状況でも「過度のストレス」がどこかにあると判断して変化することを検討したほうが良いのかも知れません。

発達するということ

心理学を学んでいてると、すごく興味深い言葉がいくつも出てきます。今日はその中でも「発達」という言葉について書きます。

「発達」はもともと子供の成長過程にのみ使われた言葉らしいのですが、大人も
変化するということで、人は生涯にわたり「発達」するという考えがあります。

心理学では、より多くの人が体験する変化(青年期や中年の危機、老いなど)について語られることが多いように思います。しかし、子供が体験するような「発達」は大人になってもあるように感じるのです。

子供は「発達」するにつれて情緒や知能が育ち、色々な感性や論理的な考えが持てるようになると言います。でも、もし一般的に大人と呼ばれる年齢になって体験するような「発達」のきっかけ(変化)や環境が、子供時代に訪れてしまったら、情緒や知能の「発達」は他の子供に比べて遅れてしまう、ということがあるように思うのです。

ここで肝心なのは、人は生涯にわたって「発達」するのだから、みんなより遅れても取り戻せるということです。いい大人が小さい子供みたいに情緒不安定気味であっても、これから「発達」するように頑張ればいい。そんな風に思うのです。

そこをどう、頑張ればいいのか。そのヒントに、自分の気質、つまり内向型か外向型かが役に立つと思っています。

自信はどこから来るのだろう?

もし、内向的でダメと自分のことを思っていたとして、それの何がいけないのか?

人は健康な精神の持ち主ならそこそこポジティブで、逆に抑うつ気味くらいでないと現実主義者とはならないらしいです。

ということは、健康ならポジティブシンキングにより、根拠なく自信を持っていてもそれが普通。

なら内向的でダメ、はあんまり健康的な発想ではないということになりそうです。

じゃあ、心身の健康を目指して・・・!というのも目標が果てしない。

多分ですが、目前のことにちまちま取り組むことで自信は知らぬ間に得るもののような気がします。

休日、一日中ゴロゴロor掃除して洗濯して買い出しして趣味に没頭。
会社から帰宅して、コンビニorスーパーで食材買って料理。

もはや、ペットのお茶買うorお湯沸かしてお茶作る、とかのレベルで良い気がします。それか、お風呂入らないor入る・・・とか。レベルの話ではなく、楽or楽じゃないけど、やった方がいい、という選択肢と言えるでしょう。
ちまちまコツコツいつの間にか、というのが理想的です。

内省的たれ

内向的と言うと何となく良くないイメージですが、内省的と言うと好意的に受け止められるように思います。

内向は関心が自分に向くことでしかなく、内省は自分がしたことなどを反省するという意味が含まれるからだと思われます。

そうなると、内向的な自分は内省的たれという発想が生まれます。

そのうち、あの人はちっとも内省的じゃないと人のことまで気になりだします。

だけど自分で自分を擁護しなければどうしようもない時はあります。
そんな時ですら内省するのは正直辛いものがある。
逆を言えば、最後の味方にもなり得る自分が自分の反省点を挙げるなんてそれは
甘くなりがちなのではないか。

だから、内省的たれ!というのは悪い発想ではないと思うけれども、内省的じゃないからダメというのは極端な考えではないかと思うのです。

愛される新入社員

今、朝ドラのヒロインが新入社員として頑張っているので、”愛される新入社員”
ってどんなのだろうか?と考えてみました。

自分がどうだったかはすっかり棚に上げて言うと、基本的に「新入社員は愛されないもの」と思っていいような気もします。

どういう事かと言うと、こちら側の本音としては、暇だったら目一杯かまってあげて好かれたいし、忙しい時は存在自体が辛い。

好かれたい気持ちはあるけれど、新入社員がいなかったら仕事はもっと楽なんだけどな・・・という身勝手さ。

そして重ね重ね勝手ながら、かまってもらえなかったり、厳しいことを言われて冷たくされても、いちいち気にしないで欲しい。

あとは、”先輩や上司がカラスが白いって言ったら白いのよ”ばりに、とりあえず意味はわからなくても言う通りして欲しいのです。会社は集団行動なので複雑な事象がいくつもあり、無意味に思えることがあってもそれなりに意味があり、それをいちいち新人に説明するのは難しいものなのです。(加えて厳しいことを言うようですが、言われた通りにも出来ないのに、一体何が出来るというのだろう・・・という考え方は確実にある気がします)

内向的とか関係なくなってますが、とりあえず新人さんに幸あれ。