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訓練は意味がある

「才能」という言葉にはインパクトがあり、その言葉を前にやる気を失くすというのは、あることだと思います。どんなに努力しても「才能」のある人にはかなわないし、追いつけない。

ですが「訓練」というのもどうやら意味があるらしい。練習すると物事はうまくなる。もしかしたら「才能」も「訓練」あってのことかもしれない。

内向型は外からの刺激を大きく受け止めてしまうので、情報収集が下手な傾向にあります。となると社交とか人間関係とか、いろんなサインから状況や人柄を読み取るのも上手じゃなかったりする。

そこで「訓練」が出てくるわけです。

社交術は外向型にはかなわないかも知れない。でも「訓練」を積めば、内向型でも初対面の人と難なく話せるようになるかも。

もし、どうして良いかわからない状況や理解できない人がいたら、少ない情報、
見つけたサインを覚えておいて、家に帰ってからゆっくり考えれば良いのです。
そして想像力を働かせる。

そういう「訓練」の積み重ねで、人付き合いは段々と上手になるものだと思うのです。

自信はどこから来るのだろう?

もし、内向的でダメと自分のことを思っていたとして、それの何がいけないのか?

人は健康な精神の持ち主ならそこそこポジティブで、逆に抑うつ気味くらいでないと現実主義者とはならないらしいです。

ということは、健康ならポジティブシンキングにより、根拠なく自信を持っていてもそれが普通。

なら内向的でダメ、はあんまり健康的な発想ではないということになりそうです。

じゃあ、心身の健康を目指して・・・!というのも目標が果てしない。

多分ですが、目前のことにちまちま取り組むことで自信は知らぬ間に得るもののような気がします。

休日、一日中ゴロゴロor掃除して洗濯して買い出しして趣味に没頭。
会社から帰宅して、コンビニorスーパーで食材買って料理。

もはや、ペットのお茶買うorお湯沸かしてお茶作る、とかのレベルで良い気がします。それか、お風呂入らないor入る・・・とか。レベルの話ではなく、楽or楽じゃないけど、やった方がいい、という選択肢と言えるでしょう。
ちまちまコツコツいつの間にか、というのが理想的です。

早くも夏バテ

いきなりですが、管理人は早くも夏バテしてしまいました。
熱こそないものの、体がだるくふらついています。

振り返ると、先週はそうめんばかり食べていました。
そうめんは本当に美味しいですが、栄養はそんなにないみたいです。

内向型は独り言が多いイメージですが、実際にそれは当たっている気がします。
体がばてていると何となく独り言や弱音が多くなるものです。

もし、その弱音に周囲が反応してくれないなら、明らかに言いすぎです。
ばてて辛い時には酷かも知れませんが、そういう時は潔く黙りましょう。

では、皆さんもお気をつけて!

飲み会では静かに飲んでいてOK

内向型に自覚のある方はお分かり頂けると思うのですが、飲み会に参加すると周りが盛り上がってくるにつれて自分のテンションが下がる、集中力がなくなるということが起こります。

普段は静かにしている人が、お酒が入っていつも言わないことを言ったりしているのを目の当たりにして、妙に冷静になったりもしますが、そういうことではなくて自然と思考停止しがちになるのです。

で、みんな楽しそうにしてるのに今の自分はつまらなさそうにしているのだろうな、と思う。

なかなかいたたまれません。

しかし別に堂々と静かに飲んだり食べたりしていていいと思うのです。

飲み会は飲み会が好きな人を囲む会であって、別に好きじゃないけど参加する人はその人にとって刺身のツマみたいなものだから、そこに存在することに意義があるのです。

飲み会絶対拒否の友人の気持ちに思い馳せてもいいし、ひたすら飲み食いするのも良し。自分なりの楽しみを見つけること。でも、飲み会で参加者の人柄を知ることもあるので、参加はすること。それで十分だと思います。

敏感になるしかない

内向型は刺激に圧倒されやすい気質です。
なので、騒がしいところなどは得意ではありません。

状況の中で圧倒されやすく、その場における情報量にも圧倒されがちで情報収集がうまくいかない場合もあります。要は空気を読み落とすことがあるということです。

となればどうすればいいのか。

いついかなる時も、状況は刺激的とは限りません。静かな場合も多い筈です。

加えて、内向型=敏感、という考えもあるくらいなので、本領発揮なら空気を読めないことなどない筈です。

だから常日頃の状況では冷静に敏感に空気を読める筈なのです。そうやって日々空気を読んでいれば、騒がしい状況で読み損じがあっても”あの人いつもと違うね”となって信頼を失うなどの致命的な失敗は避けらるかも知れない。

そう思って、周囲に気配りし敏感でいると人付き合いが苦手でも多少はうまくいくものではないかという気がします。

時代の流れ

最近、偶然なのかお気に入りに登録していたブログやテキストサイトが次々と更新を止めてしまいました。

衝撃。

このサイトもどれほどの方が見てくださっているかわかりませんが、pcよりスマホの時代に、長々と文章や画像を載せる時代ではないのかなと考えてしまいました。(更新が遅れた言い訳ではありません。更新はうっかり忘れていました。すみません)

で、内向型は時代に乗れる存在なのか置いていかれる運命にある気質なのか?

内向的でも外向的でも、時代に乗るチャンスはある気がします。内向型は情報を細かく見る傾向にあるので小さな変化を見つけやすいだろうし、外向型なら膨大な情報から変化を見出すだろうと想像するからです。

でもどんなに時代に乗っていても、変化への寂しさは感じるもの。
どうせ変化するなら感傷的にばかりならずに楽しく過ごしたいものです。

些細なことの積み重ね

あたたかく受容された経験があるのとないのとでは、自信の持ちようは全く違うものになると思います。

となると、あたたかく接してくれる両親、兄弟姉妹、お友達、先生、先輩や上司が必要となってくるわけです。

でも出会った人がみんなあたたかいとは限らない。

家族や親戚がどんな人間かは生まれた後の自分には選べないし、その他の巡り合わせも運次第のことはある。

けれど、あたたかく接してもらいやすくすることは出来るのではないか。

誰もがみんなコミュニケーションが得意というわけじゃない。失敗することも多々あるし、それは他人も自分も同じ。
失敗した人を無視するんじゃなくて、ちゃんと相手して返してあげる事。
反対に返事がなかったら、相手になぜ伝わらなかったのかと冷静に考える事。

内向的だとなかなか瞬発力の発揮出来ない部分ではあるけれど、そうやって努力して受容されやすい自分を意識する事は出来るのではないか。

それは、コミュニケーションにおける些細なやり取りの積み重ねによるものではないかと思うのです。

内省的たれ

内向的と言うと何となく良くないイメージですが、内省的と言うと好意的に受け止められるように思います。

内向は関心が自分に向くことでしかなく、内省は自分がしたことなどを反省するという意味が含まれるからだと思われます。

そうなると、内向的な自分は内省的たれという発想が生まれます。

そのうち、あの人はちっとも内省的じゃないと人のことまで気になりだします。

だけど自分で自分を擁護しなければどうしようもない時はあります。
そんな時ですら内省するのは正直辛いものがある。
逆を言えば、最後の味方にもなり得る自分が自分の反省点を挙げるなんてそれは
甘くなりがちなのではないか。

だから、内省的たれ!というのは悪い発想ではないと思うけれども、内省的じゃないからダメというのは極端な考えではないかと思うのです。

新境地でまっ白

人の生活や人生というのは十人十色であって、感性や生活環境の近しい友人・知人でないと、想像以上に人のそれらが「新境地」ということはあると思います。

例えば、独身の人が子供のいる家庭に訪問する。
子供はいないけど結婚している人でもいい。
逆も然り。
仕事をしていない人が、している人を訪問。
会社員が会社員でない人を、でもいい。
逆も然り。
大金持ちが普通のお宅へ、逆ももちろんあり。

そんな風に自分とは感性や環境が近いとは言いづらい人と関わるのは、そこでインプットできる情報量がものすごく多いということだと思います。ということは、頭の中がまっ白になりやすい。

でも、まっ白でも焦らない。疲れたなら疲れたなりの表情でいい。取り繕わなくていい。違う環境だから疲れるのであって、どっちが大変とか尊いとかそれは考えなくていい。

とりあえず無事に自分の家へ帰り、「新境地」で見聞きしたもの、得た大量の情報を整理することが大事のような気がします。

楽でいいのかも知れない

内向的だと自分の内面への関心が強く、他人からどう思われているかを理解するのは容易ではない場合があります。

そういう状況は逆に自意識過剰気味となり、バランスが取りづらくもなりえます。

しかしながら、おそらく思春期を過ぎて世間のことが少しずつわかってくると、案外みんな他人からどう思われているかわかっているわけじゃないと思えてきます。

そうなると、基本的には他人がどう思うかより自分がどう思うかにより強い関心を抱く内向型は、意外と楽という状況が生まれうると思うのです。

もちろん逆に自分がどう思うかをこんなに気にしなければ、もっと気楽で世渡り上手でいられるのに、というのも起こりえます。

だけど内向型だから常に苦しい状況というわけでは決してないのです。